鮨処なごやか亭

幸福をもたらす心のあり方

真の幸福をもたらす心のあり方について「勤勉」「感謝」「謙虚」をキーワードに、稲盛和夫氏自身の経験と京セラの歩みを紹介して頂きながらお話を頂いておりますが、ここでは、心のあり方を主としたお話を紹介させて頂きます。

 

『結局のところ、幸福かどうかは主観的なものであり、その人の心のあり方によって決まるのだと私は思っています。

物質的にいかに恵まれていようとも、際限のない欲望を追いかけ続けていれば、決して幸せを感じることはできません。一方、物質的に恵まれず、赤貧を洗うような状態であっても、満ち足りた心があれば幸せになれるのです。

ですから、幸せかどうかは、人の心の状態によって変わってくるのであり、「こういう条件であれば幸せだ」という普遍的な基準はないと私は思っています。

そうすると、幸せとは一体何なのか。それは、端的に言えば、幸せを感じられる心をつくっていくことなのだと思います。

私は皆さんに「心を高めること、魂を磨くことがこの人生の目的です」と言っています。それは言葉を換えれば、死ぬときに「何と幸せな人生だったのだろう」と感じるように、自らの心をつくっていくことなのです。そうした、幸せを感じる「美しい心」が無ければ、決して幸せになることはできないと思います。

仏の教えに、「足るを知る」ということがあるように、膨れ上がる欲望を満たそうとしている限り、幸福感は得られません、反省ある日々を送ることで、際限のない欲望を抑制し、今あることに感謝し、誠実に努力を重ねていく。そのような生き方の中でこそ、幸せを感じられるのだと思います。

人間には、百八つの煩悩があると言われています。この煩悩が人間を苦しめている元凶だとお釈迦様は説かれたわけですが、中でも最も強い煩悩として「欲望」「愚痴」「怒り」という三毒があげられています。

我々人間というものは、この三毒にとらわれて日々を送っているような生き物です。人よりもいい生活をしたい、楽して儲けたい、早く出世したい。こういう物欲や名誉欲は誰の心にもひそんでおり、それがかなわないと、なぜ思った通りにならないのかと怒り、返す刀で、それを手に入れた人に嫉妬を抱く。大抵の人はこういう欲に四六時中とらわれ、振り回されています。こうした三毒に振り回されている限り、決して幸せを感じることはありません。ですから、こうした煩悩を振り払わなければならないわけですが、それから逃れようとしても、なかなか逃れなれない、人間の心にからみついて離れないのがこの三毒なのです。』

(この三毒を抑制する方法については、H.P.のフィロソフィの学び、『人生は心に描く「思い」によって決まる』において、説明をさせて頂いています。参考にされてください。)

人生は心に描く「思い」によって決まる その二

前回に引き続き、『人生は心に描く「思い」によって決まる』のお話を紹介させて頂きます。今回は、心を磨き高めるための三つ目の方法についてのお話を紹介させて頂きます。

 

常に心に善き思いを抱き続けるために

 

前回に引き続き、『人生は心に描く「思い」によって決まる』のお話を紹介させて頂きます。

今回は、心を磨き高めるための三つ目の方法についてのお話を紹介させて頂きます。

 

『心を磨き高めるための三つ目の方法は、自分の仕事に精魂込めて打ち込むことです。一生懸命に、一心不乱に自分の仕事に打ち込むのです。雑念妄念を払拭して、今実行すべきことに打ち込んでいきます。それは、ヨガの聖人が瞑想し、自分自身の雑念妄念を払拭して真我に至るプロセスと同じです。一心不乱に仕事に打ち込むことは、座禅を組み、瞑想するのと同様に、自分の心を磨くことに役立つのです。そして、この心を磨き、心を高めるということは、魂を磨き、魂を高めることでもあるのです。

自分の心を磨き高めるためのいちばんよい方法として、お釈迦様は六波羅蜜の教えを説いておられます。「布施」「持戒」「精進」「忍辱」「禅定」「智慧」という六つの修行をすることによって、自分の心を磨くことができ、心を高めていくことができます。これによって、常に素晴らしい「善き思い」を心に抱き続けられるようになります。

「布施」とは、他人様に施しをすることです。「他に良かれかし」と願い、人助けをする利他行のことです。

「持戒」とは、人間としてやってはならないことを定めて戒律を守ることです。「貪(どん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」というものは、人生にとって百害あって一利もありません。そういう利己的な心が出ないようにすることも、「持戒」の一つになります。お釈迦様は、「盗んではなりません」、「殺生をしてはなりません」など、他にもいろいろな戒律をおっしゃっています。つまり、このような人間としてやってはならないという戒律を守るのが「持戒」です。

「精進」とは、仕事などに一心不乱に打ち込むことです。「忍辱」は、厳しい人生をいきていくなかで、どんなに辛いことがあろうとも耐え忍ぶことです。耐え忍ぶことが修行になり、心を磨くことにもなるのです。「禅定」とは、忙しいままに生きるのではなく、一日のうち、少なくとも一回ぐらいは心を静かに安定させることです。たとえ座禅を組まなくても、一日に一回、せめて寝る前にでも、心を平静に保つようにすることが大切です。

そして、最後の「智慧」とは、宇宙の真理のことです。宇宙の真理である真の「智慧」は、「布施」「持戒」「精進」「忍辱」「禅定」の五つに努めることで得られる悟りの境地です。』

前回、そして今回の、[心を磨き高めるための三つの方法」を学び、心を磨き高めて行きましょう。

人生は心に描く「思い」によって決まる

今回は、人生の真理 ――人生は心に描く「思い」によって決まる  についてのお話です。

(この文章は平成15年8月22日「第11回盛和塾全国大会の稲盛和夫氏講話の一部抜粋引用です)

 

『 こころに何を描くか

人間にとって、人生にとって「思う」ということの大切さ、重大さについて、今日はお話をしようと思います、塾生の皆さんなら。「思う」ということはたいへん重要な意味を持つということを理解していると思いますが、かねてからこのことを一度まとめて話をしたいと思っておりましたので、私なりにまとめてお話しいたします。

心に描く「思い」「考え」「夢」「想像」「ビジョン」「希望」、あるいは心に描く「哲学」「理念」「思想」というものによってその人の人生は決まっていきます。それはこの現世に生きる上で、絶対的な真理であると思いますし、多くの哲人たちが我々に古から語りかけてきたことでもあります。(中略)

人は、諸行無常、波瀾万丈の人生を生きるなかで、幸運にも災難にも出会います。私はそれが幸運であれ、災難であれ、神が与えてくれた試練であろうと考えています。その試練が幸運であったときは、それを「ありがとう」と素直に感謝の心で受け止め、慢心せず、謙虚さを失ってはならない。その試練が災難であったときも嘆かず、恨まず、腐らず、ねたまず、愚痴をこぼさず、ただひたすらに明るく前向きに努力を続けることが必要です、ということも説いてきました。良いときも悪いときも、心のなかに悪い想念、悪い思いを抱かず、善き想念を抱き続けなければなりません。そうすることで、人生はさらに素晴らしいものになっていくのです。

 

常に心に善き思いを抱き続けるために

では、人間が、常に善き思いを抱き続けられるようになるためにはどうすればよいのでしょうか。そのためには心を磨き、魂を磨き、心を高めることが必要だと、私は言ってきました。

心を磨き高めるための一つの方法は、自分自身の理性でもって、人間としての正しい生き方、人間としてのあるべき姿を繰り返し、繰り返し、自分自身に訴えていくことです、これは、生きていく上でたいへん大切なことです。先賢の教えなどを通じ、常に自分自身に対して、誠実であれ、正直であれ、謙虚であれ、努力家であれ、人には親切であれ、公平公正であれ、正義を重んじ、希望に満ち、感謝の念を忘れるなと、理性で持って訴え続けるのです。そして、それが自分の身につくようになるまで、学び続けるという姿勢が、心を磨き、高めていくためには必要です。(中略)

二つ目の方法は、常に我々の心の中に出てくる、本能に基づく利己心を抑えることです。この利己心は、仏教では「煩悩」呼ばれ、その根源にあるものは、「貪」「瞋」「癡」といわれるものです。「貪」とは、自分だけがよければいいとして、際限なく貪ることです。「瞋」とは怒り狂うことです、「癡」とは、ねたみ、そねみ、恨み、つらみ、嘆き、腐る、不平不満を募らせ、愚痴るというように、愚かでものの道理を知らないことです。

本能心から出てくる、このような三つの煩悩を抑えることが、心を磨き高める二つめの方法になります、「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」が自分の心のなかに浮かんでこないように、常日頃からそれを抑えるように努めることが必要です。この「貪」「瞋」「癡」という本能に基づく三つの煩悩は、理性で抑えるというよりは、自分の魂の中心にある真我から出てくる意志、良心によって抑えていかなければなりません。本能に基づく利己的な心、煩悩を抑えていこうとすれば、心の中に空間ができます。その空間には、利他の心というものが自然に浮かんできます。利他とは、やさしい思いやりに満ちた心です。それが心のなかを大きく占めるようになっていくわけです。このやさしい思いやりに満ちた心が、心の大半を占めるようになるためには、その対極にある「貪」「瞋」「癡」という本能に基づく利己的な心を、真我から出てくる意志、良心で抑えていくことが必要なのです。

やさしい思いやりに満ちた心とは、美しい心であり、「真善美」を求める心です。また「愛と誠と調和」に満ちた心でもあります。そして、それがまさに利他の本質なのです。利他の本質は、世のため人のために尽くそうという心です。他人様のために、お客様のために尽くそうという心であり、我々が心に抱くべき「善き思い」のことです。』

 

心を磨き高めるための三つ目の方法は、次回の「フィロソフィの学び」においてご説明をさせて頂きます。

フィロソフィの学び     『 善意で物事を解釈していけば素晴らしい人生がひらける』

今回は、物事に対するこころの受けとめ方のお話です。

(この文章は平成18年5月26日京都経済倶楽部「論談塾」で行われた塾長講話の一部抜粋引用)

 

『私はすべてのことを悪意ではなく、善意でよい方向に受けとめていくことが大事だと思っています。なぜなら、思いが人間の肉体にも影響を与えるからです。

例えば、優しい思いやりは、顔に表れます。たまに暗い顔をしていらっしゃる方がいますが、なぜに暗い顔をしているのでしょうか。優しい思いやりの心を持っていれば、暗い顔にはならないはずです。

また思いは、健康にも影響を与えていくことになります。もちろん優しい思いやりの心だけあれば、常に健康なのかといいますと、そうではありません。そういう優しい思いやりの心を持っていたとしても、自然界に住んでいる以上、細菌に侵されたり、病魔に襲われたりします。しかし、たとえ身体が蝕まれて病気になろうとも、善意で物事を考えていくことを貫いていけば、その人はやはり素晴らしい人生を送っていくことができると私はおもっています。

このようなことをこれまで考え続けてきて、最近では、人生というのは誰でも幸せに生きていくことができるものだと思うようになりました。善なるもの、優しい思いやりの心をベースにした思いを自分の心の中に描き、生きていけば、人生は必ずうまくいくはずです。財産よりも、名誉よりも、何よりも常に善き思いを心に抱くことが、一番大事なことなのです。

このことは強調しても、強調しすぎることはないと思います。ラルフ・ウオルドー・トライン著の“人生の扉を開く「万能の鍵」”という本にも、このことが書かれています。カーネギーをはじめとして、米国で大成功した事業家の多くが、この本を読んでたいへん感銘を受けられ、素晴らしい人生を送られたそうです。その本の一節を読ませて頂きます。

 

あなたが抱くどの考えも力となって出ていき、どの考えも同じ考え方を引き連れて戻ってくる。

これは、不変の法則である。あなたが抱くどの考えも、身体に直接に影響を及ぼす。愛や優しい感情は自然で正常であり、宇宙の永遠の秩序に則っている。神とは愛なのだから。愛や美しい感情は生命を分かち与え、身体を健やかにするうえに、あなたのたたずまいを美しくし、声を豊かにし、あらゆる意味であなたをますます魅力的にする。さらにまた、すべてに対して愛を抱く度合いに応じて愛が戻ってくるから、それがあなたの心に直接に影響を及ぼすから、そして心を通じて身体にも影響を及ぼすから、あなたは心を通じて身体にも影響を及ぼすから、あなたは外からも生命力が与えられる。そうなれば精神的な生活も物質的な生活もつねに生き生きとして、人生が豊かになる。

 

つまり、自分の心に善き思いを持ったとき、それは力となって外へ出ていき、善き考え方を引き連れて戻ってくる。また、邪悪な思いを抱けば、それは邪悪な力となって外へ出ていき、邪悪な考えを引き連れて戻ってくるのです。そして、優しい思いやりの心、そういう心を抱くことは愛だともトラインはいっています。宇宙を律しているのは神なのですが、神は愛そのものです。この愛という優しい思いやりにあふれた神の心に合致する思いを抱けば、その人には必ず同じものが返ってきます、愛は人に与えるものですが、同時にその愛は与えた度合いに応じて、自分に返ってきて自分を幸せにしてくれるのです。それは、不変、あるいは普遍の法則なのだということを、この著者も記していますが、まさにその通りだと思います。』

すべてのことを善意でよい方向に受けとめていくことにより、素晴らしい人生を送りましょう。

フィロソフィの学び  『こころを手入れしなければならないという「知識」を「胆識」にまで高めよ』

 

今回は、こころの手入れ(心を高める)の方法について稲盛和夫氏の教えをご紹介させて頂きます。

(平成19年12月18日関西塾長例会(大阪)で行われた塾長講話の一部抜粋引用)

『こころのなかには悪い心と良い心が同居しているといって思い出すのは、ジェームズ・アレンの言葉です。

 

「人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは、どちらの場合にも必ず何かが生えてきます。

もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。

すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。

同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとから清らかな正しい思いを植えつけ、それを育み続けなければなりません。」

 

「こころ」という庭は、手入れをしなければ雑草が生い茂ってしまう。つまり、「利己」がこころの全てを覆ってしまう。もし、あなたが自分のこころを「利他」という美しい草花で飾ろうと思うならば、こころの庭の手入れをしなければならない、つまり、利己を抑えて利他の心を大きくするようにしなければならない。そのように、ジェーム・ズアレンはいっているわけです。

重要なのは、ここからです。どのようにすれば雑草を取り除き、美しい草花を咲かせることができるのか。これまで私は、こころの庭の手入れを、具体的な方法を、解として皆さんに指し示してはいませんでした。

抽象的には、「こころという庭を手入れし、雑草を取り除き、美しい草花、つまり利他の花を咲かせようと思うならば、 足るを知る ということを知らなければなりません。同時に知性でもって、利己を抑えなさい」と話してきました。しかし、なかなかそれを実行できないのが我々人間の性です。そこでよく考えてみますと、実は我々人間が持っている「知性」は、こころの庭を手入れする力を持っていないことに気がつきました。

知性はあくまでも、こころの庭の手入れが必要であることを知らせてくれるだけで、それを実行させる力は持っていないのです。利己的な心をのさばらせてはならないと知らせてはくれますが、利己を抑え、利他的な心が出てくるようにする実行力は、知性にはないものです。ものごとのよし悪しは知性で判断できます。ですから、「オレがオレが」という欲望一点張りでは人生をダメにするということは教えてくれますが、欲を抑えるということはできないのです。

そこで必要になるのは、私もよく引用をさせていただく、安岡正篤さんがおっしゃっていた「胆識」です。我々は、知性でもって様々な勉強をして、様々な知識を身につけます。しかし、知識がいくらあっても知っているだけでは使えない。知識を「見識」にまで高め、さらには、見識を胆識にまで高めなければ実行することはできないということを安岡さんはおっしゃっています。

何が正しいことなのかを、ただ知識として知っているだけでなく、知識を、「こうでなければならん」という見識にまで高めるには「信念」が必要です。知識にその人が持っている信念が伴ったときに、はじめて知識は見識に変わっていくのです。そしてその見識を、実行することのできる胆識に変えていかなければならない。そのためには、強力な「意志」の力、「胆力」が必要になります。

自分のこころのなかによい自分と悪い自分がいて、悪い自分を少し抑え、よい自分が多く占めるようにしていこうと思えば、足るを知り、「ええ加減にせよ」と自らにいいきかせなければなりません。その上で、悪い自分を抑えることを実行に移していくには、その人が持っている信念の力、意志の力が必要なのです。ヨガなどの修行をしたり、辛酸をなめて自分を鍛えたりすることによって宇宙の真理に近付かれた方々の多くは、一様にそうおっしゃっています。

信念、意志は、真我が発現してでてくるものです。真我から出てくるこの信念と意志を用いなければ悪い自分を抑えることはできないのです。』

素晴らしい教えかと思います。「知識」を「見識」まで高め、さらには、「見識」を「胆識」まで高めなければフィロソフィなどの素晴らしい教えは実行することはできないということを肝に銘じたいと思います。

人生の目的、意義は 「世のため、人のために善きことを実践し、心を高めること」

今回のフィロソフィの学びのテーマは人生の目的、人生の意義についてです。稲盛和夫氏の教えをお伝えさせて頂きます。

 

『元来、人間は自らの意志を持って、誕生するわけではありません。両親から生を授かり、気がつけばこの世に存在しているだけのことです。ならば、この世に生を受けたことなど偶然であり、人生に目的などなく、また一人一人の人間に存在意義などないという見方もあるかもしれません。

しかし、私はそうではなく、人間の存在は必然であり、人生には明確な目的と意義が存在すると考えています。

物理学について勉強されている方は、「エネルギー保存の法則」をご存知のことと思います。いかなる物理的、化学的変化があろうと、宇宙全体のエネルギーは一定不変であるというものです。つまり、微々たる質量しか持たない石ころ一つであっても、宇宙の微妙なバランスをとるために不可欠な存在であり、無駄なものなど何一つ宇宙に存在しないのです。

また、生物学では、「食物連鎖」があります。炭酸同化作用で成長した植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べ、さらに肉食動物は土に返り、植物の成長を促すというものです。これも、連鎖を構成する、たった一つの動植物が絶えただけで、連鎖全体が成立しなくなるという微妙なバランスのもとにあり、不必要なものは一つとして存在していないのです。

つまり、自然科学の見地からも、この宇宙にあるものには、すべて必要性があり、存在すること自体に価値があると考えられるのです。

ましてや人間は、深い知恵を有し、強い意志を持ち、豊かな感情を持ち、高度な精神活動を営んでいます。もし、路傍の石にさえ存在意義があるならば、人間にはより高次元の存在意義があってもいいと私は考えるのです。

その存在意義とは何でしょうか。すばらしい知的能力を有し、高度な文明を築き上げることのできる人間にふさわしい崇高な存在意義、それは、この宇宙に存在するすべてのものに対して、善きことをしてあげるということではないかと、私は考えています。

世のため人のために善かれと思うことを行う、そのような利他、あるいは愛や慈悲といった行為に努めることこそが、人間の価値をより高め、人生を意義あるものにするのではないかと思うのです。

例えば、自己犠牲を払ってでも家族や友人のために尽くす、身寄りのない老人や恵まれない子どもたちのために何かしてあげる、または企業経営を通じ多くの従業員の物心両面の幸福に努め、さらには雇用や納税、科学技術の進歩などに寄与することで、国家や社会の発展に貢献するというようなことです。

しかし、ともすれば人は自らの立身出世など利己的な願望を、人生の目的に据えがちです。例えば、一流の大学に行って、高級官僚や政治家といった社会的に高い地位の職業に就き、人々の上に立ち、経済的にも豊かになりたい。あるいは学術や芸術の分野で高い評価を得て、社会から広く認知されることを願う、といったように、自らが「功なり名を遂げる」ことを、まずは人生の目的とするのです。

しかし、いくら立身出世を遂げ、高い地位と豊かな財産、社会的な名誉を獲得したとしても、やがて死を迎えるときに、それらを死出の旅路に携行することはできません。死にあたり、肉体を放棄した後に残りますのは唯一、魂だけであると私は考えています。

魂しか残せないなら、私は豊かな魂を残したいと考えます。そして、それこそが人生の目的でないかとも思うのです。地位を築いたとか、財産を殖やしたとか、名誉を勝ち得たなどということも大切なことではありますが、決してそれが、最終的な人生の目的ではないはずです。

年齢を重ね、人生の最期を迎えるときに、「あの人は若い頃に比べると、人柄が善くなり、たいへん立派になられた」と言われるようになることが、人生における真の功績であり、人生の勲章ではないかと私は思うのです。

つまり、人生を生きる中では、「心を高める」、心を浄化する」、心を純化する」、「心を磨く」ということに努め、魂を美しく気高いものに昇華させていくべきなのです。原石のような魂をその生涯をかけて磨き上げていくことですばらしい人格者になる、それこそが人生の意義だと私は考えています。』

フィロソフィの学び   『世のため、人のため』       

今回は、全人類が幸せになるために最も優先する必要があると考える大切な考え方、「世のため、人のため」についてお話をします。

稲盛和夫氏が実践で証明された、 「人生・仕事の結果の方程式」は下記のとおりです。

人生の結果、仕事の結果=考え方 × 熱意 × 能力

 

『この方程式にある「考え方」というものは自由なのだということが、戦後の民主主義の中で強く主張されてきました。人間は本質として自由であるという点から、考え方や人生観は自由であっていいし、百人いれば百通りの考え方があってしかるべきと言われ、我々はそれを金科玉条としてきたのです。

つまり、「考え方」は人生や仕事の成果をマイナスにしてしまうかも知れないという程、重要なファクターでありながら、個人の自由だということが最優先され、それを強制するごときはファッショ扱いをされてきたのです。

しかし、果たして、「考え方」は各人各様であってもいいのでしょうか。』

 

次のような例でご説明をさせて頂きます。

  1. 『科学に携わる我々が作り出した人工物によって、近代文明が築かれ、我々の生活は豊かになってきました。しかしその反面、この地球を病めるものにもしてしまいました。また、DNA操作や細胞の核操作によって、生命の尊厳まで脅威にさらすようなことになってきました。』
  2. アメリカ大統領は「アメリカファースト」といい、アメリカにとって一番良いと考える、経済政策や軍事政策を採りはじめました。中国は、中華思想を前面に打ち出し、中国にとって一番良いと考える政策を採りはじめ、その結果、アメリカと激しく対立をしています。ロシアのプーチン大統領然りです。韓国も、そして日本もそのような方向に進んでいるように思えます。それぞれの指導者たちは、自分の考えはそれぞれ正しいと考えています。(註・フィロソフィの学びの管理者が作成した文章です)

 

『もちろん、様々な考え方があってもいいと思います。しかし、その考え方には、ただひとつ欠かしてはならないキーワードがあると私は思っています。それは「世のため、人のため」ということです。どんな哲学、思想を持とうとも、「世のため、人のために尽くす」という考え方だけは、人類共通の基盤として絶対に持たなくてはならないのです。

「世のため、人のため」に尽くすということは、宇宙本来の意志であります。人間の考え方は自由であろうけれども、その根柢に我々を作った宇宙が本来持っているのと同じような「愛」にあふれた、つまり「世のため、人のため」という考え方を持たなければならないと思います。』

この「世のため、人のため」という考え方を持てば、法律論をかざして正当な意見の対立でもめているところでも必ず「愛と誠と調和」にみちた結論が導き出されると確信します。

フィロソフィの学び   『心の構造図』   その二

前回に引き続き、心の構造についてのお話をさせて頂きます。稲盛和夫氏は、心の研究において、2つの「心の多重構造」をお考えになりました。その一つは、前回の「心の構造図 その一」でお話をさせて頂きました。

今回は、「心の構造図その二」をご説明させて頂きます。

『もう一つ別の方法は、前回の「心の構造図①」の中心にあった真我と、その外側を包む自我を、次の「心の構造図②」のように、多重構造の円の中心に置き、半分を真我に、もう半分を自我とするのです。そして、その外側を感性や知性が取り囲んでいるものと解釈をするのです。真ん中に真我があって、その外側に自我があるのではなく、真我と自我が心の真ん中に相対し、同居していると考えるのです。このように考えたほうが、私のいう自我を抑え、真我を発揮させるということが理解しやすいのです。つまり、心の中心に、真我と自我が同居していて、真我の方が自我を上回り、六割になったり、七割になったり、八割になったりしていくということが、心が高まり、人格が高まっていくということだと考えるのです。日々精進を重ね、心を磨くことによって、真我が占める割合が増していき、自我の占める割合が減っていく、それが「心を高める」ということなのだと理解する方が、わかりやすいように思うのです。心は多重構造をとっていますが、その中心だけは真我と自我が相対し、同居していると理解するのです。あるいは、真我とは利他の心であり、自我とは利己の心ですから、人を慈しみ、人を助けてあげようという利他の心と、自分だけよければいいという利己の心が人間の心の中心でせめぎあっており、それぞれが占める割合がどうなっているかによって、その人の人間性が決まると考えてもいいでしょう。(中略)

このように、心というものは、利他と利己の二つの心が同居し、せめぎあっていると考えれば、頭がいいから研究ができるとか、仕事ができるといった能力の差はありますが、それらを超えて、この利他と利己の比率によってこそ、その人の人物のレベルが決まるのではないかと思います。人間ができているとか、すばらしい人間性をもっているということが、この利他と利己の比率で判断することができるように思うのです。

われわれが経営者として、大勢の部下を使って仕事をしていく場合でも、また一個の人間として人生を生きていく場合でも、心の中核をなす真我つまり利他の心を大きくし、自我つまり利己の心を少なくしていくように努める。その繰り返しによって、人間が立派だとか、人間ができていると周囲から言われるようになるのです。また、経営や人生を成功に導くことができるのです』と教えて下さっています。 「心の構造図その一、その二」でお話をしました教えに従い、心を高めていくことによって、幸せな人生をおくることができると確信します。

フィロソフィの学び   『心の構造図』 その一

すでに、幸せな人生を歩むためには、人生の方程式における考え方、そして良き心が必要であることをお話しました。又、経営においても、人生においても「心を高める」ことが大切であることもお話をさせて頂きました。今回は、その心について学んでいきます。

まずは、稲盛和夫氏が考える「心の構造図」についての学びです。

『心の構造を明らかにするには、医学・生物学からのアプローチ、また心理学からのアプローチ、さらには哲学からのアプローチなど、いろいろな領域からの切り口があろうかと思います。下部に示していますのは、私が自分の思想、哲学に照らし、形而上学的に分解していった「心の構造図①」です。』
註)ここで、哲学的に難しい言葉である「形而上」という言葉について説明をしておきます。
・形而上(けいじじょう)とは、形のないもの、形を超えたもの。精神的なもの
例えば、形のないものは「人の気持ちや心」、形を超えたものは「神様や仏様」のこと。

・対義語として、形而下(けいじか)という言葉がありますが、
。形而下(けいじか)とは、形があるもの。物質的なもの。感覚でとらえられる物質的な
世界をいいます。

・「形而上学的」とは、「目に見えない本質を追求する学問的」ということになります

『私は、人の心とは、このように様々な要素が幾層にも重なった、同心円状の多重構造になっているものと考えています。なぜなら、そう考えることで、様々なことが説明できるし、人間がよりよく生きることができるのではないかと考えるからであります』

心の構造のいちばん奥には、良心、理性、あるいは真善美、愛と誠と調和に満ちた、高次元の「真我」が存在すると、私は考えています。よく「良心の呵責に耐えかねて」と言います。悪さをしたことで、自分のなかにある良い心にとがめられるという意味ですが、そのときの良い心、良心が、真我にあたります。この真我の外には、われわれの命を維持するために必要な貪欲や闘争心といった「本能」があります。欲、怒り、愚痴・不平不満などの悪しき思いも、この本能に基づくものです。これらを、仏教では「煩悩」と言います。
この本能の外側に、好き嫌いや喜びや怒りなどといった「感情」があります。またその感情の外には、見る、聞くといった五感に伴う「感性」があり、さらにその外側には「知性」が存在しています。このなかで、本能と感情を合わせたものが「自我」であり、その「自我」と、中心の「真我」を合わせたものが「魂」であります。(中略)
低次元の自我とは、「オレがオレが」と主張する欲望、「利己」と言い換えていいでしょう。一方、真我は他によかれかしと願う、「利他」の心のことです。人を慈しみ、人を助けてあげようという、やさしい思いやりの心のことです。人間は、どうしても利己的な自我が過剰になりがちですから、自我を抑えるということが大切になってきます。そのために、仏教では「足るを知る」ということを教えます。「そんなに欲張らなくでもよいのではないか」などと、利己的な自我を抑えていくのです。
そのようにして自我を抑えること、つまり真我の周囲を取り巻いている自我の皮を薄くしていくことに努めていきますと、高次元の真我、つまり良心、理性というものが出やすくなってきます。そして、判断の基準を真我、つまり良心や理性に置き、それによって判断できるようになっていきますと、誤った決断をするようなことがなくなるのです。(中略)
では、具体的にどのようにして、本能にもとづく欲と怒りと愚痴を抑えて、心の中心にある真我、つまり良心、理性を発揮しやすいようにしていくのでしょうか。
それには、心の構造のいちばん外側に位置する知性を使って、最も中心にある理性を呼び起こすという方法があります。あるいは、知性で直接本能を抑えるということもできるはずです。我々現代人は理屈っぽいものですから、「それはおかしい。道理に合わないではないか。そんな自己中心的で欲張ったことは、理屈からいってもおかしいことではないか」というように、知性でことの是非を理解し、自らを戒めていくことができるはずです。
そうして、知性を使って本能を抑制し、本能がだんだん薄くなってくると、自然と心の中心にあります、良心とか理性が働いてくれることになります。まずは、このようにして、知性を駆使して、本能を抑えていくという方法があります。
また、もう一つ別の方法があります。』もう一つ別の方法は、次回の説明にさせて頂きます。

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