鮨処なごやか亭

フィロソフィの学び   『心の構造図』   その二

前回に引き続き、心の構造についてのお話をさせて頂きます。稲盛和夫氏は、心の研究において、2つの「心の多重構造」をお考えになりました。その一つは、前回の「心の構造図 その一」でお話をさせて頂きました。

今回は、「心の構造図その二」をご説明させて頂きます。

『もう一つ別の方法は、前回の「心の構造図①」の中心にあった真我と、その外側を包む自我を、次の「心の構造図②」のように、多重構造の円の中心に置き、半分を真我に、もう半分を自我とするのです。そして、その外側を感性や知性が取り囲んでいるものと解釈をするのです。真ん中に真我があって、その外側に自我があるのではなく、真我と自我が心の真ん中に相対し、同居していると考えるのです。このように考えたほうが、私のいう自我を抑え、真我を発揮させるということが理解しやすいのです。つまり、心の中心に、真我と自我が同居していて、真我の方が自我を上回り、六割になったり、七割になったり、八割になったりしていくということが、心が高まり、人格が高まっていくということだと考えるのです。日々精進を重ね、心を磨くことによって、真我が占める割合が増していき、自我の占める割合が減っていく、それが「心を高める」ということなのだと理解する方が、わかりやすいように思うのです。心は多重構造をとっていますが、その中心だけは真我と自我が相対し、同居していると理解するのです。あるいは、真我とは利他の心であり、自我とは利己の心ですから、人を慈しみ、人を助けてあげようという利他の心と、自分だけよければいいという利己の心が人間の心の中心でせめぎあっており、それぞれが占める割合がどうなっているかによって、その人の人間性が決まると考えてもいいでしょう。(中略)

このように、心というものは、利他と利己の二つの心が同居し、せめぎあっていると考えれば、頭がいいから研究ができるとか、仕事ができるといった能力の差はありますが、それらを超えて、この利他と利己の比率によってこそ、その人の人物のレベルが決まるのではないかと思います。人間ができているとか、すばらしい人間性をもっているということが、この利他と利己の比率で判断することができるように思うのです。

われわれが経営者として、大勢の部下を使って仕事をしていく場合でも、また一個の人間として人生を生きていく場合でも、心の中核をなす真我つまり利他の心を大きくし、自我つまり利己の心を少なくしていくように努める。その繰り返しによって、人間が立派だとか、人間ができていると周囲から言われるようになるのです。また、経営や人生を成功に導くことができるのです』と教えて下さっています。 「心の構造図その一、その二」でお話をしました教えに従い、心を高めていくことによって、幸せな人生をおくることができると確信します。

フィロソフィの学び   『心の構造図』 その一

すでに、幸せな人生を歩むためには、人生の方程式における考え方、そして良き心が必要であることをお話しました。又、経営においても、人生においても「心を高める」ことが大切であることもお話をさせて頂きました。今回は、その心について学んでいきます。

まずは、稲盛和夫氏が考える「心の構造図」についての学びです。

『心の構造を明らかにするには、医学・生物学からのアプローチ、また心理学からのアプローチ、さらには哲学からのアプローチなど、いろいろな領域からの切り口があろうかと思います。下部に示していますのは、私が自分の思想、哲学に照らし、形而上学的に分解していった「心の構造図①」です。』
註)ここで、哲学的に難しい言葉である「形而上」という言葉について説明をしておきます。
・形而上(けいじじょう)とは、形のないもの、形を超えたもの。精神的なもの
例えば、形のないものは「人の気持ちや心」、形を超えたものは「神様や仏様」のこと。

・対義語として、形而下(けいじか)という言葉がありますが、
。形而下(けいじか)とは、形があるもの。物質的なもの。感覚でとらえられる物質的な
世界をいいます。

・「形而上学的」とは、「目に見えない本質を追求する学問的」ということになります

『私は、人の心とは、このように様々な要素が幾層にも重なった、同心円状の多重構造になっているものと考えています。なぜなら、そう考えることで、様々なことが説明できるし、人間がよりよく生きることができるのではないかと考えるからであります』

心の構造のいちばん奥には、良心、理性、あるいは真善美、愛と誠と調和に満ちた、高次元の「真我」が存在すると、私は考えています。よく「良心の呵責に耐えかねて」と言います。悪さをしたことで、自分のなかにある良い心にとがめられるという意味ですが、そのときの良い心、良心が、真我にあたります。この真我の外には、われわれの命を維持するために必要な貪欲や闘争心といった「本能」があります。欲、怒り、愚痴・不平不満などの悪しき思いも、この本能に基づくものです。これらを、仏教では「煩悩」と言います。
この本能の外側に、好き嫌いや喜びや怒りなどといった「感情」があります。またその感情の外には、見る、聞くといった五感に伴う「感性」があり、さらにその外側には「知性」が存在しています。このなかで、本能と感情を合わせたものが「自我」であり、その「自我」と、中心の「真我」を合わせたものが「魂」であります。(中略)
低次元の自我とは、「オレがオレが」と主張する欲望、「利己」と言い換えていいでしょう。一方、真我は他によかれかしと願う、「利他」の心のことです。人を慈しみ、人を助けてあげようという、やさしい思いやりの心のことです。人間は、どうしても利己的な自我が過剰になりがちですから、自我を抑えるということが大切になってきます。そのために、仏教では「足るを知る」ということを教えます。「そんなに欲張らなくでもよいのではないか」などと、利己的な自我を抑えていくのです。
そのようにして自我を抑えること、つまり真我の周囲を取り巻いている自我の皮を薄くしていくことに努めていきますと、高次元の真我、つまり良心、理性というものが出やすくなってきます。そして、判断の基準を真我、つまり良心や理性に置き、それによって判断できるようになっていきますと、誤った決断をするようなことがなくなるのです。(中略)
では、具体的にどのようにして、本能にもとづく欲と怒りと愚痴を抑えて、心の中心にある真我、つまり良心、理性を発揮しやすいようにしていくのでしょうか。
それには、心の構造のいちばん外側に位置する知性を使って、最も中心にある理性を呼び起こすという方法があります。あるいは、知性で直接本能を抑えるということもできるはずです。我々現代人は理屈っぽいものですから、「それはおかしい。道理に合わないではないか。そんな自己中心的で欲張ったことは、理屈からいってもおかしいことではないか」というように、知性でことの是非を理解し、自らを戒めていくことができるはずです。
そうして、知性を使って本能を抑制し、本能がだんだん薄くなってくると、自然と心の中心にあります、良心とか理性が働いてくれることになります。まずは、このようにして、知性を駆使して、本能を抑えていくという方法があります。
また、もう一つ別の方法があります。』もう一つ別の方法は、次回の説明にさせて頂きます。

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