本日のフィロソフィの学びは、「運命と因果応報の法則(稲盛和夫の哲学から)」です。
『われわれの人生を形成する要素として、二つのものがあると私は考えています。
まず第一にあげられるのは、もって生まれた「運命」です。たとえば、時代を代表する優秀な学者がいるとします。彼の頭脳が明晰なのは、両親から素晴らしい脳細胞を遺伝として受け継いだからとしても、それだけで優秀な学者にはなれません。病気をせずに健康で過ごすこと、学問に打ち込める環境があること、恩師や支援してくれる人人々にめぐりあうことなど、さまざまな条件が加わって初めて、人はその与えられた才能を十二分に開花させることができます。つまり、一流の学者という地位を得るかどうかは、自分の意思や遺伝子の及ばない 「何か」―運命―の範疇に属することなのです。
東洋の政治哲学、人物学の権威として知られる故安岡正篤(やすおか まさひろ)さんは、「易は宇宙の真理を包含した学問だ」というようなことをおっしゃっていましたが、中国では古くから「易」が自然の理として研究されていました。西洋でも占星術が深く研究され、膨大な文献が残っています。いずれも「運命」というものの重みを理解し、何とかしてそれを知ろうとする人々の強い願望が生み出したものでしょう。
この「運命」とは別に、もう一つ、われわれの人生を形づくる大きな要素があります。それは、「善根は善果を生み、悪根は悪果を生む」という「因果応報の法則」です。「思いのままに結果が現れる」ということを私は機会あるたびに話していますが、それは思ったこと。行動したことが原因となって結果が生じるということです。これが、「因果応報の法則」と呼ばれるもので、「運命」と同時並行的に我々の人生を滔々と流れています。
つまり、われわれの人生をつくっている要素には、その人がもって生まれた「運命」と、その人の現世における思いや行動によってつくられる業(カルマ)がなす現象との二つがあるわけです。表現を換えれば、「運命」と「因果応報の法則」がまるでDNAの二重らせん構造のように縒りあって人生がつくられているのです。
ここで大事なことは、「因果応報の法則」が「運命」より若干強いということです。そのため、われわれはこの「因果応報の法則」を使うことで、もって生まれた「運命」をも変えていくことができるのです。つまり善きことを思い、善きことを行うことによって、運命の流れをよき方向に変えることができるのです。
これは私が勝手に考えたことではありません。安岡正篤さんはその著書「運命と立命」のなかで、「運命」は宿命ではなく、変えることができる。それには因果応報の法則が大事なのだ」という趣旨のことを述べ、中国の古典『陰隲録(いんしつろく)』という本から袁了凡(えん りょうぼん)という人物に関する本を紹介しています。この話の大筋は次のようなものです。
そのお話の内容は、次回のフィロソフィの学びにてご紹介します。